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研究ノート(その5)-教授法による授業構成の違い①(2022.09.01)

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  研究ノート(その5)- 教授法による授業構成の違い① (2022.09.01) 教授法による授業構成の違い(2022.09.01)

研究ノート(その4)-教案の検討-

  研究ノート(その 4 ) -教案の検討-   1 )教案の検討とは Ø   原動単位の検討 Ø   原動単位の連合性の検討 Ø   連合された原動単位の統合性の検討 Ø   原動単位のテクニックの検討 Ø   授業研究は原動単位の検討でもある   2 )原動単位とは Ø   授業を構成する、ある時間から時間によって仕切られた、仕切りの間に存在する概念 Ø   授業には始めと終わりが必ず存在する Ø   「仕切り」ごとにも、必ず始めと終わりがある。つまり、原動単位にも始めと終わりが存在する Ø   授業は原動単位の連合体である。連合体の開始は恣意的であるが、恣意的な開始は連合体の開始である。開始があれば必ず終わりがある。 Ø   開始の原動単位があれば終わりの原動単位がある。 Ø   開始と終わりがあれば必ず中間の原動単位も存在する。 Ø   開始の原動単位と中間の原動単位と終わりの原動単位による連合体が統合的な意味を持ち、新たな全体的な概念が生じ、授業の性格を決定する。 Ø   開始の原動単位で開始された授業は時間の進行と共に概念化された原動単位と衝突する。 Ø   衝突するのは開始によって統合性が想定される概念化される仕切りと、実践上の原動単位が合っていないことによる。 Ø   統合化される授業の性格は開始の原動単位によって方向付けされる。 (2022.08.29)

研究ノート(その3) 授業の成立と教案

  研究ノート(その3) 授業の成立 泉 史生   1 )授業はどのようにして成立しているのか(授業意識の形成)   「教授法」があること →どのように教えるのか    (授業を行う者が無意識に授業を行うと、ある教授法が存 在しているために、無意識にその教授法に乗ってしまう)     「教案」があること →どのような教授法を使うのか (授業意識から授業認識の転換・教授法を意識しその教授法にあった「教案」がどのようなものか認識する )   「時間」 →どのような順番(時間)で教えるのか (授業認識・時間の限られた中で構成を仕切り(構成概 念)を考えて時間の中でどうするのか熟慮 )   教える順番にカテゴリーがあること 教える「内容」があること →教案の仕組みを意識しているか なにを教えるのか・何を教えないのか →教授項目(内容)に沿っているか    それぞれの教授法にはそれぞれの教案が存在している。  教案は紙に書かれたものばかりを言うのではない。  脳裏にすでに存在している。  語学の教科書は必ずある教授法に基づいて、その教授法 を具現化するために ある。   授業には時間があり、必ず時間の流れが存在する。  教案には必ず「始め」と「終わり」がある。  では、始めか ら 終わりまでどの ようにするのか。  どのように始めてどのように終わるのか。  教える順序が必ずある。  時間毎のカテゴリー(概念)がある。     教案は頭の中を投影(授業意識の投影)      ↓ 教案はどのような授業をするのかの反映 授業は時間の流れ      ↓ 区分があり、それが構成となる 構成とは      ↓ 部分にカテゴリーがある     <まとめ> どんな教授法にするのかによって、構成は変わる。 授業の性格上から、どんな構成をとるのか              (とらなければいけないのか) 教案は教授法によって制約を受ける。 始めと終わりが必ずある。それを考える。   研究課題 構成(仕切り)→授業をどのように区分(仕切る)するの            か。 構成概念(原動単位)→構成一つ一つに概念が存在する。

研究ノート (その2)日本語教育の授業はなぜ成立するのか

  研究ノート (その2)  理論的に考えれば、授業構成の時間単位で仕切られる区分の概念がつかめれば、どんな授業も成立する。  45分の授業をどのように仕切り、その仕切りをどのように概念化して連続して45分にするのか。  仕切りの概念は教授法によって概念が異なる。ある教授法の仕切り概念が定式化してれば、どんな教授法でも対応できることになる。  日本語教育の中でもオーディオリンガル・オーラルメソッド・活動型・タスク遂行・オンライン授業など様々な授業にはそれを遂行するための仕切られた概念が存在する。  日本語教師養成に必要なのはある教授法の方法ではなく、その仕切りの概念をつかませることが必要と考える。  その概念がない場合、テクニックだけが先行する。受講生の関心はテクニックを身につけることだけに関心が払われる。  日本語教育史の研究からは仕切られた概念がどのように行われていたのか、必要であるが、なされていない。    

調査のための台湾走破地図-2015年3月までの走破-

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2015年に考えていたこと「日本語教育史とは何かを考えた末に」

 2015年に考えていたこと 日本語教育史とは何かを考えた末に 2015-03-18 日本語教育史 日本語教育史とは何かということを考えた末に、  日本語教育史は日本語教育の古きを知り新しくを開拓する事である。また、日本語教育は過去にどのように行なわれていたのか、考証することも日本語教育史の仕事である。  例えば、植民地時代に日本語を教える学校をが有ったとして、その時代にはどのような事がそこにあったのか、そこにどのように正しく真実に近いものを再現できるかと言うことである。  映画やドラマでは適当でいいのか、思い込みでこんなことしていたということでよいのであろうか。そのためにも研究が必要なのである。  そこから発展すると、日本語教育はかつて、どのように行なわれてきたのかという疑問にぶち当たる。またそれらはどのような体系でどのような政策の元に、どのような人がどうのような人を教えていたのか、教育場面を考えないわけに行かない。  植民地教育=悪論だけではなんら真実は出てこない。また悪を証明するために都合のいいところだけに目を向けることが、果たして正しい学問としての研究になるのであろうか。  日本語教育史というと、植民地教育の強制教育であるという結論を出さないと喜ばない方々が得てしており、どうしてもそこに結論を導きたがる。しかし、そういう姿勢は戦前の教育がどのように機能していたか無視し、戦後のしていることは昔のことはしていないということを強制していることに気がついていない。私の疑問は本当に戦前と今は違うのか、どこが、どのように違うのかということ疑問がつきない。    私の日本語教育史研究はそこから始まった。様々なイデオロギー的な結論が交差する中で、結論ありきのものばかり読んでいても、本当のことはわからないというものであった。当時の現場に極力近づくことが必要と考えた末に、台湾に住むことに決めたのであった。  また自分も日本語教師として、過去とどのように違うのか、それを考えるためにも、日本語教育史は必要なことであると考えている。